自分の感覚を、誰かに預けていませんか
答えを探すのが、こんなに簡単になった時代はなかったかもしれません。 検索すれば、すぐに「正解」が出てくる。専門家の解説動画が、無料で見られる。AIが、まとめてくれる。 それはとても便利なことです。
でも、ふと気づくことがあります。 これは「誰かの答え」であって、「自分の答え」ではないかもしれない、と。 自分がどう感じているのか。何に引っかかっているのか。何が好きで、何が嫌なのか。 情報は増えているのに、自分の感覚がどこにあるのか、わからなくなっていく。そんな感覚を持ったことはありませんか。
文学も、本来は自分の感覚で受け取るものだったはずなのに、「解説を聞かないとわからないもの」「勉強するもの」になってしまった。 身体もまた、本来は自分自身の感覚とつながっているはずなのに、忙しさの中で、その小さな声を後回しにしてしまう。
たなごころ塾は、そうした「自分の感覚」を、もう一度取り戻していくための場所です。 何か新しいものを足すのではなく、もともと自分の中にあった感覚に、静かに気づいていく。そのための入口として、文学や日本文化、レイキを扱っています。
文学は、遠い世界のものではない
近代文学や古典と聞くと、教科書で読む難しいもの、一部の特別な人のもの、というイメージを持つ方も多いかもしれません。
けれど、当時の人々にとってそれらは、今の私たちにとっての小説や映画、漫画やアニメ、ゲームと地続きのものでした。
人を好きになって苦しんだり、将来に迷ったり、社会の中で傷ついたり。
物語の形は違っても、人が悩み、笑い、泣きながら生きていることは、今も昔も変わりません。
文学は、その時代を生きた人のこころを映す鏡です。 歴史が出来事を記録するものだとしたら、文学は、その時代を生きた人が何を見て、何を恐れ、何を愛し、どう苦しんだのかという「記憶」を残すものだと思っています。
だからこそ、何百年も前の作品の中に、驚くほど今の自分が立ち上がってくることがあります。 作品を読むことは、昔の誰かを知ることだけではなく、その作品を鏡として、自分自身と向き合うことでもあります。 「わかった」で終わるのではなく、「なぜ気になるのだろう」「なぜ引っかかるのだろう」と感じ続けること。 たなごころ塾では、作品を解説するのではなく、自分自身の感覚で受け取る時間を大切にしています。
また、現代のアニメやゲームの世界観の中にも、日本の古典や文化的背景が息づいていることがあります。そうしたつながりに気づくことで、「昔のもの」だった文学や文化が、急に自分の感覚に近づいてくることがあります。

なぜ、文学とレイキなのか
「なぜ文学とレイキなのですか?」と聞かれることがあります。一見すると、まったく違うものに見えるかもしれません。
けれど私の中では、この二つは「自分に還る」という点で、深くつながっています。
文学は、ことばを通して、自分でも気づいていなかった感情や感覚に触れていくものです。一方で、レイキは、身体感覚を通して、自分の状態に気づいていくものです。方法は違っても、どちらも「自分の内側に触れていく」という点で、地続きの営みだと感じています。
私自身がレイキを始めたきっかけも、そこにありました。体調を崩したことをきっかけに、アーユルヴェーダや漢方など、さまざまなアプローチを探す中でレイキと出会いました。最初はかなり疑っていました。けれど、自分で自分をととのえられること、日本で生まれた実践であること、そしてヒーリングだけでなく精神修養としての側面を持っていたこと——その三つが、私の背中を押しました。
レイキは一般には「ヒーリング」として知られていますが、もともとは大正時代の日本で生まれた、心身を調えるための自己鍛錬法のひとつでした。誰かを癒すための特別な技法というよりも、自分自身の状態に気づき、日々を整えていくための実践です。
また、霊感や特別な能力を持った人だけのものでも、それを目指すものでもないと、私は考えています。特別な力を「足す」のではなく、本来持っている感覚や自然な状態に戻っていくこと。そこに、レイキという文化の本質があるように感じています。
病気になると、私たちはつい「誰かに治してもらうもの」と考えがちです。もちろん、医療の力はとても大切です。けれど本来、身体には自ら整い、回復していこうとする力が備わっています。レイキは、その自然な力を静かに支え、自分の状態に気づいていくための実践でもあります。
また、他者に手を当てることは、相手を変えるためではなく、他者を通して自分自身の在り方に気づいていくプロセスでもあります。
文学がことばを通して内側に触れるものだとしたら、レイキは身体を通して内側に触れるもの。だから私は、この二つを切り離さずに、大切にしていきたいと思っています。
日本の文化は、「感じる」ことから始まっていた
昔の日本の文化には、「まず感じる」という感覚が、今よりもっと自然に息づいていたように思います。
和歌は、季節や景色、感情をその場で響き合わせるものでした。能や神楽も、「意味を理解する」より先に、音や間、気配を身体で受け取る芸能でした。
床に座ると、目線が低くなる。それだけで、部屋の見え方が変わります。和蝋燭の灯りの下では、影が濃くなり、光の届かない場所が生まれる。昼間と同じ空間なのに、そこに在るものが、違って見えてくる。そういう感覚は、今の私たちの中にも、まだ残っています。
たなごころ塾では、文学を頭で理解するものとしてだけではなく、空間や灯り、音や季節感も含めて受け取ることを大切にしています。作品を読むというより、その世界に少し身を置いてみる。すると、今まで気づかなかった感情や感覚が、ふっと立ち上がってくることがあります。

教室の外で学ぶ——すみだという土地で
たなごころ塾の活動拠点は、東京墨田区の向島、押上周辺です。
この地域には、江戸から続く下町の文化や、さまざまな文学・文豪の記憶が、今も静かに残っています。路地の名前や古い商店の看板には、今は失われた地名が残ります。昔ながらの商店やお祭り。何気ない街の風景の中にも、この土地で生きてきた人たちの時間や感覚が、今も息づいています。
一方で、スカイツリーの開業をきっかけに、街の風景や人の流れは大きく変わりました。新しいものが生まれ、多くの人が訪れる街になった一方で、昔からこの土地にあった文化や感覚が、少しずつ見えにくくなっているようにも感じています。
私は現在も、この土地に暮らしています。
ご先祖から数えると、五代続く商人の家系で、関東大震災と東京大空襲では二度家を焼かれました。明治三十五年生まれの祖母は、私が小学生の頃には亡くなりましたが、もっと話を聞いておけばよかったと思うことがあります。
この地域は花街の文化も残る土地で、子どもの頃には、芸者さんのお稽古事も身近にありました。
私自身も、祖母と一緒に長唄を習っていました。「六歳の六月六日に芸事を始めると上達する」という昔からの習わしに倣って、その日に始めたことを覚えています。
今振り返ると、文学や日本文化に惹かれる感覚も、そうした土地の空気や身体感覚の中で、自然と育まれてきたものなのかもしれません。
だからこそ私は、「文化を残す」というよりも、今を生きる人たちが、自分の感覚で触れ直せる形で、もう一度ひらいていきたいと思っています。
たなごころ塾では、教室の中だけではなく、街の中で学ぶことも大切にしています。文学作品の舞台になった場所を実際に歩いてみる。街の看板に残る昔の文字を読み解いてみる。和蝋燭の灯りの中で、静かに物語に耳を傾けてみる。
そうした体験を通して、文学や日本文化が「遠い昔のもの」ではなく、自分たちの暮らしと地続きのものとして感じられる瞬間があります。
地域の学びの催しでは、変体仮名や日本文化、レイキ体験の講座なども行っています。また、古民家を活かした文化空間で文学講座を開いたり、地域の方とつながる小さな企画を重ねたりしながら、「教室の外で学ぶ」ということを、この街で少しずつ実践しています。
特別な知識がある人だけの場ではなく、どこか気になった入口から、ふらりと立ち寄れる場所でありたいと思っています。

「たなごころ塾」という屋号
「たなごころ塾」という屋号は、私が大切にしたい学びや在り方、関わり方から名付けました。
「たなごころ」とは、手のひらを意味する古い日本語です。「たのごころ(手の心)」が語源と言われ、手とこころの結びつきを示す言葉です。
日本語には、「手」のつく言葉が数多くあります。手仕事、手作り、手書き、手当て。どれも、効率よく省略できるものではなく、その人の関わり方が、そのままあらわれる営みです。
手は、嘘をつきにくい。 せかせかしている手、力が入りすぎている手、迷いのある手、そっと差し出される手。「手を抜く」「手がかかる」「手当て」——日本語に手とこころを結びつけた表現が今も残るのは、手の動きや佇まいには、その人の在り方があらわれると、昔から感じてきたからではないでしょうか。
文学に向き合う時間も、レイキの実践も、それと同じだと感じています。何を知っているかよりも、どう感じ、どう関わろうとしているか。在り方が、そのまま場の質になっていく。
「塾」といえば受験のための「学習塾」を思い浮かべる人が多いでしょう。
しかし、前近代の私塾では、学問や芸事だけでなく、ものの見方や感じ方、人との向き合い方が、生活と地続きのものとして受け継がれていました。
師が弟子に教えるだけでなく、弟子の問いや気づきが師を深めることもある。学びは、上から下への一方通行ではなく、場にいる人たちが互いに影響し合いながら育っていくものだと感じています。
たなごころ塾も、そういう場でありたいと思っています。
強く導くのでもなく、無理に変えようとするのでもなく。
ただ、ことばに触れ、からだの感覚に耳を澄ませる時間を重ねていく。
その積み重ねの中で、自分の中に何かが少しずつ拓かれていく。
どんなふうに生きたいのか。
何を大切にしたいのか。
それは、誰かに教わるものではなく、自分の内側から、静かに姿をあらわしてくるものなのかもしれません。
「ことばが拓く、こころの学び舎」。
たなごころ塾が、そんな時間をともに育てていける場所であれたらと思っています。
強く導くのでもなく、無理に変えようとするのでもなく、ただ、開いていること。ことばに触れ、からだの感覚に耳を澄ませる中で、自分の中にあるものに静かに気づいていく時間を、これからも丁寧に育てていきたいと思っています。

